尺蠖を除く(1人読み)

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棚佳 飲月記録(たなか いんげつきろく)
尺蠖を除く(をぎむしを のぞく)

【配役】(0:0:1)
■棚佳 飲月(たなか いんげつ)男性(性別不問とする)



拝啓、西東 虹次郎(さいとう こじろう)様。いや、西東。


本来ならば、電話一本で事足りる事を、おまえが嫌な顔をするのを期待してこうして筆を取っている。


事の始まりはG県北東部、山岳地帯にて一対の大腿部(だいたいぶ)が見つかった。

いや、まどろっこしい。言い換えよう。奇麗に切り取られた太腿(ふともも)が見つかった。
警察も、地元の記者倶楽部もこぞって猟奇殺人であると騒ぎ立てている。


私は、この事件に「異常性」のにおいを感じたわけだ。
事件のあった山岳地帯に一つの村があった。その村をM木田村(えむきだむら)と言う。
その村では、山からの奇麗な湧き水を利用した山葵(わさび)栽培が盛んで
村の住民のほとんどが、M木田山葵の生産者であった。


山はその殆どが獣道で、車も、大型二輪も通ることは叶わない。
恐らく、馬などで行けば幾分か楽にたどり着く事ができるのだろうが、
二度と行くつもりはないという事だけここには記しておこう。


青く茂るブナ林と、群生を広げるハリエンジュの棘がより一層この山の歩きづらさを際立てる。


山に入る前に一言だけ「ハイルナ、キケン」の看板があっただけ。
M木田村の入り口には、何も無かった。正確には、そこがM木田村であるという事すらもわからない。
ただ、そこに村があり、人が居るという事だけ。


何故、そのような言い方をするかわかるかね、西東。


そう、一切の口を聞かなかったのだよ。村人の誰もが。
それだけで、十分にこの村がとても閉鎖的で、レイシズムの片鱗が見え隠れしている事が伺えた。


さて、どうしたものか。普段自宅に引きこもり、太陽を避ける生活をする私だ。
このまま引き下がり今来た道を戻るのも実に癪であるし、物理的に不可能だ。
だが、一度やると決めたからには私とてノマドになる他あるまい。


形振りを構っているわけにはいかない、そう、私はこの「異常性」の為だけに全てを超えることができる男だ。


何度も何度も話しかける。


「この村に宿は無いのか」「この村に寝泊まりができる宿はないのか」「なあ、この村に宿はないのか」


まるで、羊飼いが何度もベルを鳴らしながら羊を呼ぶかの如く。
まるで、小児(しょうに)が母に雲の形を訪ねるかの如く。


何度も訊いてやった。問い詰めてやった。
そうして、快く、村人に受け入れられた私はとある老夫婦の家に寝泊まりを許されたのだ。


ここの食事というものは、味気が無くて堪らん。


事あるごとに食事のアテというやつが全て山葵なのだ。
あんな食事を摂っていれば、確かに閉鎖的な思考にもなるのかもしれない。
何せ心に余裕もゆとりもないのだ。食文化というものは、性文化同様に人の生きざまに関与する。


人間、抑圧はスパイスなのだ。常に食事にスパイスがあってはならない。
舌先で感じる刺激が徐々に慣れると、今度はより大きな刺激を求めるようになる。
それが原因なのか、はたまた関係が無いのか。


例の太腿切断の猟奇事件は再び起こる。
どの太腿も、凡そ20代から40代の女性の太腿だった。
見つかるのは全て一対の太腿のみ。身体も、頭も、腕も、他の部位は一行に現れない。
警察は言う。「これは、女性の太腿に欲情する、奇癖の持ち主が犯人である」と。
奇癖の持ち主、それには概ね同意せざるを得ない。


しかし、本当にこの犯人は太腿に欲情する者であろうか。


仮に私が、その犯人であるのならば、少なからず欲情する先を捨てるようなことはしない。
そういった点では西東、おまえは安心していいとも言える。
私は、そうした人体破壊主義を持ち合わせているわけでもなければ、
自身の所有する大切な玩具(がんぐ)を乱暴に扱う癖もない。
すべてが欲しく、私は強欲なのである。
今の所、内臓の全てを我が物にしたいとも考えた事はない、安心したらいい。


さて、話を戻そう。
それではこの棚佳 飲月(たなか いんげつ)が思うに、犯人の真の目的は何であるのか。
それはもちろん、女体の中心。「胎(はら)」に決まっていると考える。
例えば想像してみて欲しい。蝗の佃煮(いなごのつくだに)という食い物(くいもの)が在る。


私は特段、食べたいと思った事は無いがこれを主食とする地域もあるそうだ。
食感(しょくかん)は至って見た目通り、落ち葉を数枚重ねて醤油や味醂(みりん)で煮込んだかのような弾力。
それらは仕込む際に食いでが無く、歯ざわりの悪い羽根や後ろ足を捥ぐ(もぐ)のだ。


そう、この太腿というものも、恐らく同じ。
不要であったから、棄てたのだ。ただそれだけの事なのでは無かろうか。


何かを成す際に、太腿がある故に邪魔だと判断したのだ。
実に勿体ない事をする。


私であるなら、太腿なんてものは満漢全席にも筆頭するご馳走だ。
そもそもとして、人体、いや、生体に無駄な部位など一つもない。
無駄な部位が無いという事は、無駄な接続も無いという事だ。
西東から生える太腿は、西東の鼠径部の形にそって膨らみ、緩やかな流線を保っている。
付け根から発する汗の匂いにこそ、エロティシズムが含まれる。
ましてや、太腿の無い股間部とは、生卵の無い牛鍋(ぎゅうなべ)のようなものだ。
実に味気ない。ほんの少し、何かが足りないと感じてしまうであろう。


しかし、これもまた安心してほしい。仮におまえの四肢が欠損しても、私はおまえを見限るようなことはない。


それこそ、自然の流れでのおまえの身体すべてに価値を見ているし、お前の四肢があったであろう空間すらも私は愛すると決めているのだ。


そんな事を思いながら今日の仮住まいの天井を眺めていると、
老夫婦が話しかけてくるではないか。
なんとも声が小さく、小突けば今にも折れてしまうのではないかと思うほど
やせ細った身体は、まるで餓鬼のようだった。


眼孔は窪み、ぎょろりと覗かせる目玉は、この排他的で閉鎖的な空間演出には最適であった。


「堪忍しておくれ」と蚊の飛ぶ音よりも小さな声で老夫婦は言う。


「一体何のことなのか」と問うとそれ以降また何も言わなくなる。


そもそも、何かを言うほどの活力があるようにも思えない。


もしかすると今は発した言葉がこの夫婦の精一杯の一言であった可能性すらある。


私は物は試しと再び声をかける。
「一体何を堪忍すればよいのか」
「何故そんなにも言葉を発さぬのか」
しかし、帰ってくる言葉は無い。快く家にあげてくれたかと思えば、むつかしい村である。


そんな村人も、どうやら村の名産の話には食いつかざるを得なかったようで。
「ここの山葵はどのように作られているのか」という質問には、顔を青ざめ更には部屋の隅を見つめ
先ほどよりも喋らなくなってしまった。
難儀な村人である。


「異常性」を嗅ぎ付け、興味本位で来てみたものの
特段好みの女体も男体もあるわけではない。
娯楽や観光の類が有るわけでもなければ、肝心の村人は全員石像の方がましと思えるほど何も発さない。


ただそそくさと忙しそうに何かをしているだけだ。
そんな最中(さなか)、私が気になったものと言えば名産の山葵だ。


山葵と言えば、大きく分けて2種類の栽培方法が存在する。
冷涼で、山の傾斜を利用した、水を多く使う山葵が主に「水山葵」、他にも谷山葵や沢山葵と呼ばれる。
逆に、他の野菜同様に畑で栽培する山葵をそのまま通称で「畑山葵」「陸山葵」なんて呼ぶ事もあるという。


常に冷たく、涼しげな温度管理を行い、澄んだ水で育てる水山葵は畑山葵に比べて品質が向上するといわれている。
銀座や東京の一等地で店を構える寿司屋なんかの山葵のほとんどはこの水山葵だろう。
このM木田村の山葵も、「水山葵」である。と、聞いていたはずだった。
しかし、不思議とこの山、どこを巡っても沢らしき沢が見当たらない。
山が死んでいるわけでもなく、勿論川は流れ、水源もある。


しかし、肝心の水山葵を育てる沢が無いのだ。
となれば、ここの山葵は畑山葵という事になる。
では、その畑はどこにあるのか。
西東、この手紙を私が書いているという事は、当然私はその畑を見つけたと言う事になる。


でなければ、おまえが苦い顔をしながらこの手紙を読んでいるのを想像しながら
こうして筆を進めている理由にならないだろう。


さて、おまえはどう思う?
現時点で、この「異常性」の沼はどこにあるのか。
そもそも何が「沼」であるのか。
私は、この手紙を書く事が世の中の為にならない事を重々承知している。
では、なぜ、最愛のおまえに向けてこのような手紙を書くのか。
もちろん、これは、私なりのお前への愛なのだ。
言葉にするのも、ちんけになる。おまえだけに向けた、私なりの恋文というわけだ。


今、眉をしかめたのを私は肌で感じた。これは未来日記ともいえるのかもしれないな。


まず、この話の解を知る為には私の寝泊まりした老夫婦の話をする必要があるだろう。
勘づいた私に対して、この老夫婦は実に協力的だった。


先の短い残りの人生を、豚箱(ぶたばこ)で臭い飯を食い散らかしながら過ごすなんてこと、まっぴらごめんだと言わんばかりに。
まず先に、この老夫婦は既に山葵作りを引退した夫婦であったこと。


それがあるからこそ、私を泊める事が出来たというのがとても重要な部分である。


この村では、元より江戸時代から「名産」と言われるものが何一つなかったと言う。
いや、正確に明記するのであれば唯一の名産が、普段我々が口にする「畑山葵」であった。


普段我々が口にする、と表記したのには理由があるわけだ。


現在作られる「畑山葵」と、この村が今よりももっと貧しかった時に作っていた「畑山葵」は別物であるという事。
そもそもこの山は、ブナとハリエンジュが群生しており、老人しか居ないM木田村では道はおろか開拓が進んでいなかった。
ハリエンジュの木は葉が落ちたあと、鋭い棘が多く生えてくる。


棘が多く、手間も掛かる事から老人では手を焼いたのだろう。
寂れていく一方の村に、国のお偉方から一つの儲け話が飛び込んできたという。


それが、「畑山葵」の話だった。


まず、必要なものは若い女だった。


この村に若い女は数名しかおらず、それを使うわけにはいかないと当時の村長は抗議したという。
無いものは無い、これは仕方ない。では、無いものを有るものにするにはどうするべきか。


簡単な話、この寂れた村ではなく、山を下りた先の豊かな村々の娘を使えばいいだけの話だった。
娘の調達には、お偉方の使いも積極的だったと言う。


それもそのはず、必要なのは娘なわけであるから、それを鹵獲した後どうこねくり回そうが「山葵」には関係ないときた。
村に連れて来られる娘の殆どは、衣服が破かれ、顔に痣を作っていたという。


余程、辛く戦慄な思いをしたのだろう。村についた娘たちで、抵抗するものは居なかったという。
どの娘も呆けて、虚空を眺めるだけ。もしくは、薬でも盛られていた可能性もあるかもしれない。


次に準備するのは、不必要な箇所の除去だ。
もう気づいただろう、西東。


そう、歯ざわりの悪い羽根をむしるが如く。
山葵の栽培に必要の無い、太腿を切り捨てていたのだった。
攫っては、犯し、薬漬けにしては、足を切り、逃げる事もできず娘たちは村人たちの家々で
「畑」として生活をしていた。


まともな思考を持たず、口からは涎(よだれ)を垂れ流し、両腕と腰の動きだけで家の中をはい回る姿は
まるで「尺蠖(ヲギムシ)※尺取り虫のこと」のようだったと夫婦は語る。


娘たちは、頭の中が奇天烈になっているようだった。


物を言わず、くねくねと尺を取り、その胎の中に、山葵を抱える。


そう、娘たちの「胎」が、「畑」だったのだ。


娘たちの体液を吸い、時には胎が羊水で満たされる娘もいたという。


その全ては、ただただ、山葵の為に。


思えば、名は伏せるがとある宗教では「高尚なる存在」から見た「人」とは
いつまでも迷いの道から逃げ出せぬ、ただの「尺蠖(ヲギムシ)」であるとされていた。


では逆に、「尺蠖」のような人を家に買う彼らM木田の村人は、自身を何を錯覚していたのか。


繰り返し、攫っては、切り落とし、その胎に、山葵を突っ込む。


娘が御釈迦(おしゃか)になれば、また攫い、切り落としては、山葵を詰める。


その繰り返しが、いつしか村人から「これは尺蠖である」「これは畑である」という傲慢を纏わせていた。


先ほど、隣家を訪ねるとそこには「尺蠖」に話しかけながら玄米を喰わせる老人が居た。


何も話さず、ただ尺を取りながら、ひがな山葵を身ごもる娘を、その老人はにこやかな顔で世話しているのだ。


この状況を、西東、おまえはどう見る。何を感じる。


おそらくこの村は、そのお偉方から押し付けられた「異常性」の沼が無ければ
当の昔に廃村として幕を閉じていただろう。


しかし、彼らが生を諦めてさえいれば、この土地を捨てさえしていれば


娘共は今よりましな生き方をし、今よりましな死に方をしていたのは間違いない。


そして、断言するのであれば。


この事件は私が公にしない限り、解決することは無いのだ。


太腿にすがる性犯罪者など存在しない。存在しない犯人を、どう捜せというのか。


たった一対の太腿から、「常人」がこの答えに行きつくだろうか?


この状況を、西東、お前はどう見る。何を感じる。
おまえが、苦悶の表情を浮かべながらこの手紙を握りつぶす様を早く見たいものだ。


そうして、お前に太腿がついている事に感謝し、天井を仰ごうと思うよ。


ーfinー

きのうからナンセンス

エログロナンセンス文学 18歳以上推奨。

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